建築の品格を高めることが地方を解決する唯一の方策

課題

現代の日本社会は人も物も金も東京に集まるように仕組まれている。国家の中枢と大企業の本拠は東京に集中する。東京で企図された制度と情報と商品は地方の隅々に万遍なく行き渡る一方で、地方で収穫され生産された物は東京に吸引される。国から地方へ交付された事業も在京企業に付託され、金は東京に還流する。

地方は東京を担保するためにあるかのようだ。需要地から遠ざけて供給地を置く原子力発電所が端的にそれを示している。一方100年に1度の不況と言われながらも、バブル期以降地方はそれほど好調ではなかった。地域の小売業は大手流通業に丸呑みされ、商店街はどこも外来種に駆逐されて在来種が絶滅した湖沼のようになった。それさえも今は昔。食い尽くされた商圏は縮小し、大手流通業が撤退すれば街は廃坑のようになる。かくして地方は往復ビンタを食らう。

その原因は大手資本に帰属するのではない。彼らは市場原理に従ったに過ぎない。元来地方には都崇拝の偏執がある。その昔は○○銀座、少し前なら原宿モドキ。そして今、郊外のショッピングセンターに人びとは群がる。ジャンクなフェイクに幻惑された地方が、自らの文化を枯渇させているのだ。

中央偏執の志向は建築も例外ではない。一定規模以上の仕事は在京の設計事務所に委託されてきた。今となっては建築家の力量以上に会社規模が優先される。時に在京事務所を代表者とする共同体を求めることも稀ではない。在京事務所への共同が地域育成とされてきた。その差別はやっと解消に向かい始めたように思える。それは地域保護の撤廃でもある。地方の建築士が淘汰の波に晒されることを意味している。建築家としての覚悟を据えることが地方の課題であろう。

対策

建築家は自立した個人としての制作者である。どこにいるかは問題ではない。誰かに媚びることもなく、世界との距離感を正確に把握しながらひたすら自らを高め、自らの責任において振舞うことで、建築家は建築家足り得る。熟知した地域にあっても建築を志向することが地方の建築家の成すべきことだ。

しかし、建築は一個人の内的活動において成立するものではない。建築行為は建築を求める他者との共同作業である。建築家は建築主の目的を適えることに務めながらも、建築を制作することを目的とする。両者の利害は目的を適えることとその報酬の等価性と建築に向かう意思の共有によって一致を見出す。建築主なくして建築家は存在せず、建築家なくして建築は成立しない。建築主と建築家は密接不可分の関係を相互に認知することで建築は実現に向かう。しかし、幸福な受胎まではしばらくの時間が必要だ。

建築の運命を基礎づけるのは両者の言語化されない建築への思いである。その思いを的確に言語化することが建築への初動となる。まずなすべきことは、建築の全体から細部に至る決定要因を漏れなく抽出し、対象とする建築が抱え持つ問題の核心に迫ることだ。建築主に潜在している個人的要求、組織戦略、社会的使命を見い出すことによって、建築家が果たすべき使命が明白になる。けれども、与条件と呼ぶべき課題は建築主から提示されるものでなくなり、建築主の中から見つけ出し、拾い集めるものとなった。建築主におもねることなく、事態を客観的かつ正確に把握することが重要だ。

建築家の原初的な存在理由は課題解決にある。見出された課題に対して大局観のあるビジョンに基づき的確な解決策を提示することが建築家の使命である。建築家として備えるべき倫理観と建築家固有の美意識が建築の質を決定づける。建築家の使命は単なる俗事の解決にあるではなく、結果に価値を付与することにある。エティックとエステティックを備えたソリューションすなわち容(かたち)の提示こそが建築家の本懐なのだ。

制作者たる建築家の社会的役割は、変容する社会に自らを適応させながらその使命を実直に果たすことにある。その核心は「建築主にとって本当に大事なこと」「社会にとって大事なこと」「未来にとって大事なこと」を見据える視座の高さにある。現在における的確な行動が自らの未来を決定付ける。

建築家に建築主を選択しない権利はあるとしても、建築主が建築家を選別するという構図は不変である。社会を批評しても構図が変わることはない。社会の渦中にあって建築家本来の役割を果たすことだけが道を開くことになるだろう。地方にあって個々の建築の品格を高めることが地方の問題を解決する唯一の方策だと自らに言い聞かせている。

益子一彦
新建築
2009年7月号
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